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    プロフィール

    村木忍

    Shinobu Muraki

    1923-1997

    職種:
    映画美術監督
    所属:
    東宝(1945-1970)|株式会社コム(1970-1992)
    村木忍< 撮影:立木義浩『女の仕事』、朝日新聞社
    解説
    村木忍は、戦後占領下から独立した日本の映画界に、新進気鋭の美術監督として颯爽と登場した。市川崑監督のソフィスティケイテッド・コメディ『青色革命』『愛人』(共に1953年)に始まり、東宝映画の「三人娘」「若大将」「社長」「クレージー」シリーズなど、2本立て興行全盛時代に量産された多数のプログラム・ピクチャーから、黒澤明、市川崑の重厚な大作まで、実に40年間で100本程の作品を手がけ、質量ともに日本映画を牽引し続けた代表的な映画人のひとりである。

    映画美術は、映画で描かれる全ての物語空間を実際に作り上げる仕事であり、端的に言えば俳優の肉体を除いて、各カットの画面上に映し出されている目に見えるもの全てが映画美術の仕事である。その総合責任者を担う映画美術監督(プロダクション・デザイナー)は、シナリオをもとにロケーションやセットを検討し、ロケーション・ハンティングや時代考証を行い、監督のイメージやキャメラマンの意図、製作費などもふまえながらセットデザインの設計や立面図を作成する。さらに、それらをもとに大道具から小道具、衣裳や美粧(メイク)などの各パートと調整を重ね、多数のスタッフワークを束ねながら作品全体の世界観を構築し、物語の空間をひとつひとつ具現化していく、まさに「知的・肉体的重労働の連続」で「苛酷」【1】な仕事である。

    村木忍は映画美術監督として、その苛酷な環境を40年間第一線で走り続けた、知的・肉体的にも非常にタフな映画人であった。撮影所システム【2】全盛期の1950年代から1960年代は、極めてグラフィカルでモダンな美術デザインと、大胆かつ強烈な存在感のあるセットデザインで、東宝映画の代名詞的なドル箱人気シリーズやミュージカル映画を多数手がけた。村木の映画美術は、東宝映画の軽快で都会的な垢抜けたイメージを形成しただけでなく、東宝の屋台骨を支えたとも言えるだろう。その個性は、一例として村木忍のフィルモグラフィーに記載されているショウ・ブラザーズ作品の『千嬌百媚』(陶秦監督、1961年)【3】をあげると、スタッフロールには村木の名前は無く「美術 莫蘭詩」と表示されているのみだが、ミュージカル・シーンに突然現れる『ジャンケン娘』(杉江敏男監督、1955年)や『君も出世ができる』(須川栄三監督、1964年)などでお馴染みの、壁いっぱいにチョークや墨汁で描かれた落書きのような絵やアルファベット(しかも本作ではまともな英単語は見当たらず単に「DEFG」などと書かれている!)、貼られた体のポスターのデフォルメ具合、空間に視覚的なリズムを出すスロープなどが、紛れもない村木忍の美術と、見るものを唸らせる。

    1970年には、同じく美術監督である夫の村木与四郎と株式会社コムを設立し、以後、『乱』(黒澤明監督、1985年)や『鹿鳴館』(市川崑監督、1986年)、『天河伝説殺人事件』(市川崑監督、1991年)など、綿密な調査と時代考証に裏打ちされ、徹底した“よごし”や“磨き”によって、朽ちかけたような古い家屋や、丸みを帯びて黒光りした艶のある木の床や柱など、圧倒的な存在感を放つ重厚なセットも多数手がけた。村木忍は、『社長外遊記』『続社長外遊記』(共に松林宗恵監督、1963年)の美術で第17回日本映画技術賞を受賞後、晩年まで国内外で多数の映画賞を受賞し、美術監督としての評価を不動のものとした。1993年の紫綬褒章受章においては「わが国ただ一人の女性映画美術監督として『細雪』『乱』などの作品で独自の映像世界を生み出している」【4】と評されたが、本人の受章コメントは、「同じことを飽きもせずに長くやっていると、順番でもらえるのね、こういうものは」【5】「長い間やっていたから頂けただけと思いますよ。ありがたいから、受けちゃいました。アハハ…」【6】と、彼女のタフさと大胆かつスマートな映画美術の源泉はまさにここにあり、というクールなものである。

    村木忍が美術監督になるまでの経緯を辿っておこう。関東大震災の翌日、後に真言宗豊山派管長、大僧正となる長岡慶信(けいしん)の長女として東京・滝野川に生まれた。長岡は教育関係の著書も多く、布教活動も熱心に行い、住職をした北区の與楽寺では幼稚園を開いて園長もしていた人物である。忍は、東京美術学校(現・東京芸大)で油絵を学ぶことを志すが、同校は女性に門戸を閉ざしていたため(1946年から共学)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入って西洋画を学んだ。

    彼女の映画人としてのキャリアは、1944年の卒業後、徴用を逃れるために東宝に入社し【7】、兵隊訓練用フィルムで飛行機のシミュレーション用動画を描く仕事から始まった。忍は1945年に美術助手に転身し、松山崇について経験を積む。その後、忍は1年後輩の美術助手の村木与四郎と共に『東宝千一夜』(市川崑監督、1947年)、『戦争と平和』(亀井文夫・山本薩夫監督、1947年)、『新馬鹿時代』(山本嘉次郎監督、1947年)、『醉いどれ天使』(黒澤明監督、1948年)、『野良犬』(黒澤明監督、1949年)などを担当し、仕事の合間を見つけては一緒に街に出て、闇市や吞み屋など、町場のスケッチを精力的に描いて回り、膨大な参考資料【8】を作っている。ふたりは1951年に結婚し、長岡忍は村木忍となった。

    助手時代から村木忍の最期まで並走した村木与四郎は、「だいたい昔はお寺さんの娘は女子美なんて行かないもん。だから割と自由奔放だったんですよ、親父がね」【9】と、彼女の映画美術の持ち味がモダンな家庭の「お嬢さん育ち」にあると言う【10】。さらに、「何といっても熱心さが一番すごいんだよ。台本をもらったらそれに夢中になって、その日のうちからいろんなことを調べて書き出したり、本屋へ資料を買いに行くんだもん」【11】と、彼女の強みを語っている。女性の映画美術助手として新聞記事で紹介された「この道に入って、もう七年にもなり、面白くてやめられない」【12】という言葉と写真の笑顔からも彼女の気質がうかがえる。この記事では『野良犬』のセットに活かした警視庁スリ係の部屋のスケッチ、『慶安秘帖』(千葉泰樹監督、1952年)のための博物館での風俗調査など、あらゆるものが克明に記されたノートも紹介されている。

    彼女の旺盛な好奇心と遊び心に富む徹底したこだわりを、彼女の代表作の1本でもある『大冒険』(古澤憲吾監督、1965年)から、主人公(植木等)の隣室に住む発明家(谷啓)とその妹(団令子)の1Kセットに見てみよう。主人公が隣室の妹を訪ね、彼女が出かけるまでの9ショット(0:08:13~0:09:22)から、主人公が玄関に現れるフィックスのショット1(0:08:13-0:08:22)、玄関から窓際の妹の近くまで入ってくる主人公をフォローしながら工具や機材が山と積まれた室内右半分を見せ、そこは兄の領域であることを示すショット3(0:08:30-0:08:53)、出ていく妹をフォローしながらピンクのカーテンと写真で覆われた室内左半分をあらわにし、そこが妹の領域であることを示すショット9(0:09:11-0:09:22)の計3ショットの色彩設計と装飾だけで、一目で兄妹の生活ぶりと力関係(兄の領域の中央に妹の装飾品が進出している!)までもが伝わるようになっている。同時に、どのポジションからも撮影でき、同一シーンでもショットごとに表情をガラッとかえられる“饒舌な”映画美術。

    『大冒険』隣人兄妹の部屋セット【13】。ショット1は、縦構図で、玄関から妹に話しかける主人公を窓外から捉え、一間の奥行と共に、ガラス窓でアパート外の町並みも表示。ショット3は、ショット1では窓で隠れていた玄関から左半分の空間を初めて明らかにするショット。発明道具の灰・茶色の機材・工具で埋め尽くされた兄の生活領域であり、爆発で壁に埋まっている兄に構わず、妹は化粧を続けており、兄の領域に妹の帽子が食い込んでいる。ショット9では、玄関左手奥から室内右半分を初めて明らかにするショット。ピンクのカーテンと写真で妹の生活領域を主張し、台所は兄妹で利用していることが色使いで示される。

    60代になっても「映画を作るということは、やっぱりすごく面白いんですよね」「飾りなんかも細かく見て、自分の気のすむまでやる」「やっぱり気のすむまでやると深夜になりますよね」【14】と語っていた村木忍は、面白くてやめられないまま40年間を駆け抜けた職人美術監督だったと言えるだろう。(執筆:冨田美香)

         
    まず観るならこの1本:『君も出世ができる』(1964年)
    なんと言っても、無冠の傑作『君も出世ができる』である。「三人娘」や「社長」シリーズを多数手がけてきた村木忍ならではのモダンで遊び心に満ちた映画美術に、須川栄三の演出、谷川俊太郎・黛敏郎の楽曲、関矢幸雄の振付が三位一体となった、日本初の本格ミュージカル映画の金字塔である。

    最もダイナミックなナンバーの「アメリカでは」は、オフィスの巨大なセットが毎カット姿を変えていきながら、ナンバーの主題を明確に視覚化し、7分間もの長尺を一気に見せる陶酔のシークエンスとなっている。青い帽子と青の縁取りをきかせた白いワンピースにスレンダーな肢体を包み、黒縁眼鏡でエッジをきかせた社長令嬢の雪村いづみが、明快な活舌と青いハイヒールでキビキビと歌い踊るにしたがって、二宮金次郎像や書籍の灰色・茶系に統一されたオフィスが次第に青色へと塗り替えられ、さらにはそれまで目立たなかった女性たちをも自己主張する色彩豊かな服装へとどんどん解放していく痛快さ。女性の服をキーカラーとした美術設計は、杉江敏男監督の『ロマンス娘』(1956年)や『大当り三色娘』(1957年)などで培われてきた村木忍と衣裳の柳生悦子コンビの手腕がいかんなく発揮されていて、見ていて実に小気味よい。ラスト・カットの、オフィス・カラーが地球の色である青に、社名のロゴも漢字から英語に変わっているその無節操な到達点までも爽快だ。このシークエンスを一貫してリードする雪村いづみの際立ったかっこよさは(ファーマフラーは彼女の自前という痺れる逸話もある)、彼女の出演作を多数手がけた村木と柳生、そして女性対男性の設定を活かした谷川・黛のナンバー、須川・関屋のダイナミックな演出が見事に融合して彼女の魅力を余すところなく引き出し、この到達点をも説得力あるものにしている。

    一方で、居酒屋の民芸調セットは、オリンピック前の東京で高度経済成長を支えるサラリーマン社会に対するアンチテーゼとして、オフィスとは対極的な存在感を発揮している。このセットのあちこちにある梁や柱、障子や桟、衝立や紐は、どこから撮っても横長のシネマスコープの画面を縦に分割する線となって、画面の奥行きとともにスクリーンのフレーム内フレームの構図を作りやすい仕組みとなっている。初めて居酒屋が登場して、店員の中尾ミエが「いなかにおいで」を歌う1分40秒ほどの短いシーン(0:21:12~0:22:50)は、この奥行きとフレーム内フレーム構図をフルに活かした移動撮影の3ショットで構成され、歌い回る中尾ミエに観客の視線を常に集める構図がとられている。その結果、短いナンバーでも、社長令嬢とは対照的な親しみやすくアイドル的な女性像を十分に印象づける効果をあげている。さらに、中央の囲炉裏端では、カメラが動きやすい空間を活かして、画面中央に男性主人公ふたりを据え、後景の空間とふたりを見守る周囲の人物も捉えながら1カットで「サラリーマン出世三カ条」を一気に歌い上げるなど、同じシーンで全く違うタイプのナンバーとカメラワークを成立させるセットとなっている。

    最後に、村木忍の映画美術による人物造型もおさえておきたい。冒頭4分近くのタイトルナンバー「君も出世ができる」の居室である。出世に向かってサラリーマン生活を合理的・機能的に送る工夫を徹底して凝らしているフランキー堺の部屋に対して、一瞬登場する高島忠夫の居室には、レコードや機械など、観光会社の仕事とは無関係のものばかりが極めて乱雑に積みあげられている。一瞬のカットだが、趣味のオーディオや機器いじりに夢中になって夜更かししては翌朝辛いという彼の日常が、一目でわかる。そのマイペースのイメージとベージュに統一された色調は、高島が歌う「タクラマカン」の布石にもなっている。

    台詞よりも雄弁に、一瞬でその人物の生活や思考を物語り、作品の重要なコンセプトまで示す映画美術の魅力。村木忍の美学が徹頭徹尾貫かれている作品である。(執筆:冨田美香)
    『君も出世ができる』(須川栄三監督、1964年)の「いなかにおいで」を歌う居酒屋シーンのショット1(DVD、東宝、2008年)。このファーストショットの梁や柱による「フレーム内フレーム」構図で、中央の中尾ミエと、右側から彼女を見つめるフランキー堺をそれぞれ捉え、続く2ショットでは、さらに奥行のある複雑なフレーム内フレーム構図で中尾ミエと、彼女を見つめる男性陣たちを捉え、中尾ミエへの視線が常に強調される効果をあげている。
    フィルモグラフィー
    ※1 中村公彦『映画美術に賭けた男』草思社、2001、31頁。

    ※2 ハリウッドの「スタジオ・システム」に由来し、大手映画会社が製作から配給・興行までの全工程を統括するビジネスモデルを示す。その方針の下で撮影所は、映画工場として製作ラインに必要な設備や人員(スタッフ・俳優含む)を全て整備・社員雇用し、製作部門をスケジュール含めて効率よく運営・統括する役割を果たした。

    ※3 西本正/山田宏一・山根貞男『香港への道:中川信夫からブルース・リーへ』(筑摩書房、2004、219頁)で、村木忍が美術を担当したと記載あり。また、村木忍『村木忍の作品』(南斗書房、1998)掲載のフィルモグラフィーにも本作は記載されている。

    ※4 「93年春の褒章 晴れの受章800人 女性は最多の82人」『読売新聞』1993年4月28日 朝刊 30頁。

    ※5 「わが道求めて今報われる 紫綬褒章 村木忍さん 手がけた作品限りなく」『朝日新聞』1993年4月28日 朝刊 27頁。

    ※6 「93年春の褒章 東京都内で109人に栄誉 映画美術監督の村木忍さんら」『読売新聞』1993年4月28日 朝刊 26頁。

    ※7 東宝入社については、1945年に「美術助手として東宝(株)に入社」(村木忍、前掲※3)や「東宝美術部入社」(日本映画テレビ人名鑑編集委員会『日本映画テレビ人名鑑1991』、1991)の記載が多いが、「東宝に入社して、飛行機のシミュレーション用の動画を描くのが仕事になった。だけど、面白くない。で、友人の紹介によって映画美術監督の助手に転身した。」(前掲※4)や、「彼女は戦時中、市川崑と一緒に教育映画部にいた。兵隊さんの訓練用フィルムを作っていた」(村木与四郎・丹野達弥 『村木与四郎の映画美術:[聞き書き]黒澤映画のデザイン』フィルムアート社、1998、272頁)という証言から、軍の委嘱を受けて陸海空軍の各種記録教材映画を製作していた東宝の航空資料研究所の特別映画班(東宝三十年史編纂委員会『東宝三十年史』東宝株式会社、1963、158頁)に1944年に入り、終戦後に「航空資料研究所員を撮影所に合流させた新しい撮影所職制」(同書、171頁)となった9月に、美術助手として東宝に入社した可能性が高い。

    ※8 そのうちの一部が、浜野保樹編/村木与四郎・村木忍『東京の忘れ物 黒澤映画の美術監督が描いた昭和』(晶文社、2002)にまとまっている。

    ※9 「映画雑話 村木与四郎氏インタビュー」(女子美アートミュージアム編『村木忍・村木与四郎・黒澤明-映画美術の世界-展』女子美アートミュージアム、2003)、頁表示なし。

    ※10 村木与四郎・丹野達弥、前掲※7、272-273頁に詳しい。

    ※11 前掲※9、「映画雑話 村木与四郎氏インタビュー」。

    ※12 「未来花11 婦人 目先に美術監督 徹夜も厭わぬ引立役 東宝映画・美術部助手・村木忍(28)さん」『読売新聞』1952年1月22日 朝刊 2頁。

    ※13 古澤憲吾監督『大冒険』(東宝、1965年)、DVD、東宝、2001年。

    ※14 残間里江子編『女の仕事:[地球は、私の仕事場です]』朝日新聞社、1987、228頁。
    公開日:2023.05.26 最終更新日:2023.06.15