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- プロフィール
- 解説
- まず見るならこの1本
- 注
プロフィール
羽田澄子
Sumiko Haneda
1926-
- 職種:
- 監督
- 所属:
- 岩波映画製作所(1950-1981)|自由工房 (1981- )
Photo:© 彼方舎
解説
まず観るならこの1本:『痴呆性老人の世界』(1986年)
老年期をむかえることの難しさを描いた記録映画三部作——『痴呆性老人の世界』(1986年)、『安心して老いるために』(1990年)、『終わりよければすべてよし』(2006年)——を羽田澄子は監督している。これらの作品の中でも『痴呆性老人の世界』は必見の一作だと思う。
この作品は、認知症とはどのようなものか、また、常識を越える行動をとりがちな認知症を患う老人たちに対し、健常者はどのように対応すべきかをつまびらかにしているという点で、当時としては革新的な記録映画であったと言えよう。1973年、有吉佐和子の小説『恍惚の人』が映画化され、認知症を患った老人看護の問題が社会に大きな波紋を投げかけた。しかし、同時に「恍惚の人」という表現が、患者たちのイメージを固定化してしまった功罪にも注目すべきであろう。森繁久弥の迫真に迫る好演が話題となり、働くお母さん——弁護士事務所で働きながら家事をこなす嫁(高峰秀子)——が直面する家庭内における老人介護の難しさが明らかにされた。老人映画の先駆けともいえる『恍惚の人』から13年後、羽田は九州にある国立病院にて、痴呆性老人と看護師たちとの様子をカメラに収め、老人たち=「恍惚の人」というステレオタイプを払拭することに成功した。
この作品の前作とも言える『痴呆老人の介護』(1983年)は、羽田自身から持ち出された企画ではなく、岩波が自社作品として企画し、羽田に製作を依頼する形で始まった【5】。その後、羽田が改めてこの岩波作品を『痴呆老人の世界』というタイトルで作り直した1986年、羽田はちょうど60歳になったばかりだったが、当時を振り返りながら「私は老人問題について全くの門外漢だったが、映画を作ることで否応なく、痴呆性老人の問題に直面することになった」と記している【6】。彼女の言葉が反映するかのように、『痴呆性老人の世界』では、認知症を患う老人たちの撮影を通し、羽田自身が遭遇する驚きや発見に満ちており、それらがわかりやすく、きめ細やかに表現されている。2023年現在の視点からこの作品を再見しても、そこにはいまだ古びることのない多くの学びと共感、そして老人医療に携わる看護師たちの思いやりが描かれていることに気づかされる。
確かに、われわれは『痴呆性老人の世界』から多くのことを学ぶ。まず、老人たちの認知は後退し多くのことを忘れていく過程にあるが、感情面での認識は高く、むしろ正確に人々の好意を感知していること。また、介護の基本は「説得よりも納得」であることを、ベテランの介護士たちが的確に自分たちの行動を通して観客に示している。言葉の力も重要だ。会話が難しくなっている老人たちではあるけれども、介護士たちは常に老人たちに話しかける。介護士たちの九州訛り(熊本か?)は、心優しく、明るくて、生きる希望を患者さんたちに与える。
もし『痴呆性老人の世界』に「難点」があるとすれば、それは作品へのアクセスの難しさである。以前は岩波映像からDVDが50,000円(定価)で販売されていたが、今はそのサイトも表示されなくなっている。ドキュメンタリー映画三部作の別の2作品も同様にDVDを手に入れることが難しい。これらの作品のように、現在にも綿々と続く深刻な介護問題を描いた作品は、もっと多くの観客に見られ続けられる必要があると痛感する。(執筆:ミツヨ・ワダ・マルシアーノ)
この作品は、認知症とはどのようなものか、また、常識を越える行動をとりがちな認知症を患う老人たちに対し、健常者はどのように対応すべきかをつまびらかにしているという点で、当時としては革新的な記録映画であったと言えよう。1973年、有吉佐和子の小説『恍惚の人』が映画化され、認知症を患った老人看護の問題が社会に大きな波紋を投げかけた。しかし、同時に「恍惚の人」という表現が、患者たちのイメージを固定化してしまった功罪にも注目すべきであろう。森繁久弥の迫真に迫る好演が話題となり、働くお母さん——弁護士事務所で働きながら家事をこなす嫁(高峰秀子)——が直面する家庭内における老人介護の難しさが明らかにされた。老人映画の先駆けともいえる『恍惚の人』から13年後、羽田は九州にある国立病院にて、痴呆性老人と看護師たちとの様子をカメラに収め、老人たち=「恍惚の人」というステレオタイプを払拭することに成功した。
この作品の前作とも言える『痴呆老人の介護』(1983年)は、羽田自身から持ち出された企画ではなく、岩波が自社作品として企画し、羽田に製作を依頼する形で始まった【5】。その後、羽田が改めてこの岩波作品を『痴呆老人の世界』というタイトルで作り直した1986年、羽田はちょうど60歳になったばかりだったが、当時を振り返りながら「私は老人問題について全くの門外漢だったが、映画を作ることで否応なく、痴呆性老人の問題に直面することになった」と記している【6】。彼女の言葉が反映するかのように、『痴呆性老人の世界』では、認知症を患う老人たちの撮影を通し、羽田自身が遭遇する驚きや発見に満ちており、それらがわかりやすく、きめ細やかに表現されている。2023年現在の視点からこの作品を再見しても、そこにはいまだ古びることのない多くの学びと共感、そして老人医療に携わる看護師たちの思いやりが描かれていることに気づかされる。
確かに、われわれは『痴呆性老人の世界』から多くのことを学ぶ。まず、老人たちの認知は後退し多くのことを忘れていく過程にあるが、感情面での認識は高く、むしろ正確に人々の好意を感知していること。また、介護の基本は「説得よりも納得」であることを、ベテランの介護士たちが的確に自分たちの行動を通して観客に示している。言葉の力も重要だ。会話が難しくなっている老人たちではあるけれども、介護士たちは常に老人たちに話しかける。介護士たちの九州訛り(熊本か?)は、心優しく、明るくて、生きる希望を患者さんたちに与える。
もし『痴呆性老人の世界』に「難点」があるとすれば、それは作品へのアクセスの難しさである。以前は岩波映像からDVDが50,000円(定価)で販売されていたが、今はそのサイトも表示されなくなっている。ドキュメンタリー映画三部作の別の2作品も同様にDVDを手に入れることが難しい。これらの作品のように、現在にも綿々と続く深刻な介護問題を描いた作品は、もっと多くの観客に見られ続けられる必要があると痛感する。(執筆:ミツヨ・ワダ・マルシアーノ)
『痴呆性老人の世界』(1986年)Photo: 提供: 記録映画保存センター
フィルモグラフィー
注
※1 「昭和31年(1956)に取り掛かった映画は32年に完成し全国に配給上映される中で、地元甲西町でも何度か上映会が催されました。(中略)そのドキュメンタリー映画の感想には「あんなに女の人をみじめに映してほしくなかった。」とか「嫁が戸主や姑さんの言うことを聞かない場面があったのはよくない。」「女は損だと言い過ぎて田舎に嫁が来なくなるのではないか。」(広報『こうせい』より)と言う感想があったのを見ると、この映画の価値を正しく見てもらえない悲しさの中に、それだからこそ羽田監督の意図の重要さを改めて感じられます。」著者不明「岩根東区で撮影された映画『村の婦人学級』」『岩根東区誌 ももづてのさと(百伝)』(滋賀:岩根東区誌編纂委員会、2006年)この記事全体の頁、pp.184-190。
※2 羽田澄子「ごあいさつ」、編集責任・土本典昭『羽田澄子・人と作品』(出版者無記名、1977年)頁数無明記。
※3 羽田澄子、聞き手:阿部マーク・ノーネス「羽田澄子」、『ドキュメンタリー映画は語る』(東京:未来車、2006年):pp.46−53。初出は英語:”Documentarists of Japan Series: Haneda Sumiko,” Documentary Box 1 (September 1992):9−13.
※4 土本典昭「<作家研究>羽田澄子作品25年 その反省としごとの記録」、編集責任・土本典昭『羽田澄子・人と作品』(出版者無記名、1977年)頁数無記名。
※5 羽田は1981年に岩波映画製作所からすでに定年退職していた。
※6 羽田澄子「映画『痴呆性老人の世界』をつくって」『老いの発見 2 老いのパラダイム』(1986年、岩波書店)63頁。
※2 羽田澄子「ごあいさつ」、編集責任・土本典昭『羽田澄子・人と作品』(出版者無記名、1977年)頁数無明記。
※3 羽田澄子、聞き手:阿部マーク・ノーネス「羽田澄子」、『ドキュメンタリー映画は語る』(東京:未来車、2006年):pp.46−53。初出は英語:”Documentarists of Japan Series: Haneda Sumiko,” Documentary Box 1 (September 1992):9−13.
※4 土本典昭「<作家研究>羽田澄子作品25年 その反省としごとの記録」、編集責任・土本典昭『羽田澄子・人と作品』(出版者無記名、1977年)頁数無記名。
※5 羽田は1981年に岩波映画製作所からすでに定年退職していた。
※6 羽田澄子「映画『痴呆性老人の世界』をつくって」『老いの発見 2 老いのパラダイム』(1986年、岩波書店)63頁。
公開日:2023.04.27 最終更新日:2023.05.04
羽田澄子は日本を代表する女性ドキュメンタリー映画作家である。1926年に中国・東北の大連市に生まれ、わずかな期間を除き、16歳になって東京へひとり上京するまで、戦時下の植民地満洲での生活が彼女の生い立ちの基盤となっている。20歳になる直前に敗戦を迎え、1950年岩波映画製作所の前身である岩波書店内の中谷宇吉郎研究室に入る。そして1981年に定年退職するまで、およそ30年間、会社員監督として80本以上の映画作品を製作した。
1980年に岩波を離れフリーランスになって以来、羽田は彼女自身が惹かれた主題を追い求めながら映像作品を作り続けた。筆者が羽田監督の作品を初めて劇場で観たのは『痴呆性老人の世界』(1986年)であるが、その後彼女は『安心して老いるために』(1990年)、『終りよければすべてよし』(2006年)と、高齢化社会に突入していた日本の大きな社会問題である老人福祉問題を20年にわたり記録した。
歌舞伎も彼女が惹かれた主題のひとつである。ひとりの歌舞伎俳優を長年にわたり撮り続けながら、舞台や稽古場、日常生活の様子、そして彼が語る芸談といったあらゆる要素を包み込んだ計10時間46分の編記録映画『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』6部作(「若鮎の巻」「人と芸の巻 上」「人と芸の巻 中」「人と芸の巻 下」「孫右衛門の巻」「登仙の巻」、1992-1994年)を残している。
羽田の興味は、歌舞伎、神楽、絵巻に代表される古典芸能・芸術だけでなく、現代舞踏にも向けられた。羽田は1985年に『AKIKO—あるダンサーの肖像—』を製作した約30年後『そしてAKIKOは……あるダンサーの肖像』(2012年)を連作として監督している。両作品は、AKIKOという類い希な才能の持ち主である女性ダンサーの個人史の記録であると共に、加齢や病気、死といった普遍的なひとりの人間の終末を捉えている点で、老人福祉問題3部作や死期を迎えた13代目片岡仁左衛門の長編シリーズとも共鳴している。
2008年以降、羽田は自分のルーツとも言える旧満洲に撮影に出かけ、『嗚呼 満蒙開拓団』(2008年)と『遙かなるふるさと—旅順・大連』(2011年)を撮影している。後者では「日中児童の友好交流後援会」が企画するツアーに参加した羽田が、ツアーのメンバーと同様に自分が育った家や学校など思い出の場所、忘れることのない記憶を追いかける。しかし、どちらの作品も単に過去の郷愁に浸るのではなく、日清・日露戦争以後40年にわたる日本統治と共に消失してしまった自分自身の歴史の一部を、現在の映像と共に再認識する自己内省的な作品である。
羽田の映画製作者としての力強さは、男性が主権を握る映画会社の中で「監督(岩波では「演出」と呼称)」としての仕事を続けた耐久力だけでなく、退社後、フリーランスの映画作家として製作した作品の数々にも見受けられる。企画に対する選球眼の鋭さや作品の質の高さ、また個々の作品を市場に訴及するための努力といった点によって、同時代のドキュメンタリー映画作家の中でも類を見ない輝きを放った。
ここで、羽田が長年勤めていた岩波映画製作所(1950−1998年)について補足しておこう。通称岩波映画は、戦後日本を代表する記録映画製作会社であり、高度成長を迎えた基幹産業からの受注を受け、多くの産業/PR映画を作ると同時に、科学/社会教育映画の製作にも秀でていた。当時岩波書店の役員をしていた小林勇が、岩波映画製作所の設立も担当したという事例が示すとおり、発足当時、岩波書店の岩波映画への影響力は大きかった。通常の映画スタジオとは異なり、ドキュメンタリー映画に特化した小さな製作会社で、監督としての立ち位置を見出した羽田は、幸運だったと言わざるをえない。戦後間もない時期、多数のスタッフや組織が関わる映画製作において女性が中心となり作品を完成させることは容易ではなかった。岩波映画は、他のどの映画製作会社と比べても、給与待遇を含め男女格差が少なかった点が指摘されている。実際、限られた数であったにせよ、時枝俊江という女性の同僚監督が職場に存在した事実、また彼女たちが多くの秀作を作り続けることができたジェンダー間の垣根が低い環境を、われわれは今再評価すべきだと思う。
また、フリーランスになって以後の羽田の作品の多くは、高野悦子が中心となる岩波ホールで公開されている点も注目に値するだろう。ひとつの作品を長期にわたって上映し、口コミで評判を広める上映方式を採用した岩波ホールのやり方は、羽田の作品のような地味ではあるが良質の映画と親和性が高かった。高野が岩波ホールの総支配人であると共に、岩波書店の社長を務めた岩波雄二郎の義妹であることは良く知られており、そういう意味でも岩波と羽田とのつながりは長く続いた。
岩波映画製作所時代の羽田の数ある作品の中で、筆者は『村の婦人学級』と『薄墨の桜』の2作品に注目する。その理由のひとつは、羽田が監督としてデビューを果たし、代表作と目される前者と、1980年に岩波を退職する直前に、PR映画としてではなく、岩波映画製作所から異例の許可を得て作った後者との比較から、羽田映画の本質、つまり彼女の監督としての素性や変遷が読み取れると感じるからである。『薄墨の桜』で見受けられるように、1980年代初期、およびフリーランスの映画監督として自己の製作会社を夫である工藤充(みつる)と共に立ち上げて以降の羽田澄子の作品群は、先述したように、彼女自身が興味の幅を拡げながら、日本社会における女性の立ち位置、老いの問題、古典芸能・芸術、老練するプロフェッショナル像、戦時期の帝国の様子や人々の暮らしといった多様な方向へ膨らんで行った。
誰が実際に映画を観たか、それをつきとめることは非常に難しい。しかし、『村の婦人学級』に関しては貴重な資料が残っている【1】。本作が撮影された甲西町岩根東の区誌の記録から、この教育映画が、被写体(農村女性)・撮影主体(羽田)・観客(公民館に集まる人々)とのつながりの中で、非常に親密な女性同士の関係性を築き上げたことがわかる。一方、『薄墨の桜』というアート・シネマは、個人的な表現の発露として生まれたこと、そこには想定された観客といった考えはおそらく無かったことが、羽田自身の言葉から読み取れる。(引用部分の下線は筆者による、以下同)
《会社の仕事がますます忙しくなる中で、自分を仮託して表現できるものとして、『薄墨の桜』の存在は私の心をとらえつづけました。》【2】
「自分を仮託する」と羽田が表現している『薄墨の桜』に、彼女は一体自分の何を投影したというのだろうか。観客という観点からこの作品を考えるとき、羽田の意識は、被写体とのつながりや、観客に与える影響といったものではなく、むしろ自分の作品と自己との結びつき、自己表現としての創作に移行した。別の言い方をすれば、〈映像作家〉としての自覚を、『薄墨の桜』という映像製作を通じて確信し始めたように筆者には思える。
羽田は、羽仁のdirect cinema(ダイレクト・シネマ)スタイル——カメラの前の出来事を事実そのままに伝えようとするスタイル——を、『村の婦人学級』の中で使っている。しかし、羽仁の『教室の子供たち』と羽田の『村の婦人学級』との大きな違いは、前者が当時日本では文法にのっとらない撮り方だとされたdirect cinemaスタイルを終始貫いたのに対し、後者は「作った映像」を差し挟むことによって、当時の映画製作における常識との摺り合わせを図っている点である。羽田は、教育映画という枠からはみ出ないために、婦人学級という母親たちのグループ活動から何かが生まれ、何かが変わりつつある、という当時のドキュメンタリー映画にありがちだった「変化」や「進歩」といった要素を重視する予定調和な物語を選んでいる。
こういったスタイルにおける試行錯誤の後、羽田は映画監督としての長いキャリアのある時点に、自分が本当に作りたい作品は何かに気がつくことになる。皮肉なことだが、それは彼女が会社員監督として岩波で定年を迎える時だった。しかし、岩波からの退職は映画監督からの引退ではなかった。土本典昭は、当時ちょうど50歳を超えた羽田が、映画づくりの新たな意味に目覚めたと仮定しながら、創作の原衝動が、彼女の出生の背景から生じた「日本」や「日本人」に対する回帰に通底していると指摘する。羽田自身は新たなこの目覚めに関して、以下のように書き留めている。
《「異邦人の眼」で私の日本人の所在をみていくことしかない。『薄墨の桜』は私がそのままでは同化し得ない地縁を自覚的に表現しつつ、日本人の歴史をたてに生きた1000年余の桜の生命力を見つめようとした作品だ。私ははじめて、日本が見えるかも知れないと思う。》【4】
この短い発言の中で、筆者の関心を摑んだのは、羽田が自分のことを異邦人だと感じていることよりも、むしろ『薄墨の桜』の製作を通じて、彼女がどこの地縁にも同化することのない自己の立ち位置に気づき、それを表現しようと試みた点である。
羽田は、『薄墨の桜』以後挑発的ともいえる斬新な作品を世に送り出し続けた。夫としてプロデューサーとして彼女の映画製作を支え続けてきた工藤充が亡くなった後も、それは変わらなかった。羽田が描いた「女性」は、『村の婦人学級』や『薄墨の桜』の差異が示すように、必ずしもひとつの傾向を抱えているわけではない。むしろ羽田にとって興味があるのは、これらの女性たちが何をするか——彼女たちの行動や行為そのもの——だったのかもしれない。教育の無い村のお母さんたちが勉強会を開くこと、自分の考えを人前で言うこと、貧しい村の娘が神様に捧げた神饌(しんせん)を夕方に下げる動作、そしてその娘がカメラを見つめ返す行為。こういった女性たちの動きは、羽田の後年の作品へとつながる。老人福祉3部作だけではなく、『AKIKO—あるダンサーの肖像』連作によって羽田は実験的に女性たちの老いを映像化した。
羽田にとって、女性が監督として映画を製作することの意義は、必ずしも自己の女性としてのアイデンティティを自覚的に表現することではないだろう。しかし、羽田の作品の数々は、監督自身が興味を抱いた彼女たちの行動や行為をスクリーンに映し出すことであり、羽田自身が必ずしも彼女らと同化できない地縁感/違和感のようなものを表現している点に、筆者は惹かれる。土本の言葉を借用するならば、彼女が女性たちに向けた〈興味〉そのものが、女性を語るときに不可欠な「原衝動」だと言えるのかもしれない。(執筆:ミツヨ・ワダ・マルシアーノ)