パイオニア>女性パイオニア
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プロフィール
堀北昌子
Shoko Horikita
1930-
- 職種:
- スクリプター
- 所属:
- 大映|日活
解説
記録係とも呼ばれるスクリプターは、ほとんどの撮影所で女性の職とされ、現場とポストプロダクション(撮影後の作業)を繋ぐ重要な役割を担ってきた。「スクリプター烈伝」では、そんなスクリプターのパイオニア女性たちに、現役スクリプターで脚本家の谷慶子氏が、ざっくばらんにインタビューをおこなっていく。第1回は日本映画スクリプター協会初代会長の堀北昌子(ほりきた・しょうこ)氏。スクリプターになったきっかけや、男性ばかりの職場での女性ならではの苦労について聞いた。
“レジェンド”と言われる第一人者
堀北昌子さんは、1992年に創立された日本映画スクリプター協会(現・協同組合 日本映画・テレビスクリプター協会)の初代会長である。映画制作において問題が起きても、ひとつの現場にひとりで参加するという仕事の特質上、個人でしか対応できず、またスクリプター同士の連携も取りづらかった状況を改善すべく、白鳥あかねさん、構木久子さんらと共に仲間に声をかけ、創立会員85名を集めて同協会を設立した立役者だ。
大映京都から日活撮影所、三船プロを経てフリーでの活動をされており、今まで関わってきた劇場用映画作品は60年間で約140本。ご一緒されてきた監督の名前や作品歴をみれば、その素晴らしいお仕事ぶりも一目瞭然である。森一生、今村昌平、舛田利雄、松尾昭典、『戦争と人間』(山本薩夫監督、1970年)、『泥だらけの純情』(中平康監督、1963年)、『戦国自衛隊』(斎藤光正監督、1970年)、特に伊丹十三監督と共に作られてきた『お葬式』(1984年)、『マルサの女』(1987年)シリーズなどは、ご存知の方も多いだろう。
さて、そんなレジェンドともいえる堀北さんにお会いできたのは2017年の晩秋の頃。一体どんな方だろう、怖い人だったらどうしようと緊張しつつ、当時スクリプター協会の理事だった樽角みほりさん、廣瀬順子さんとともに待ち合わせの場所へ向かった。
東京某所にあるお好み焼き屋さん、堀北さんのお家のすぐ近所のいわゆる「行きつけ」のお店だ。京都生まれ京都育ちの堀北さんは、東京に住んで長くなるが話し言葉は関西弁で、関西出身の私はそれだけで親しみを感じてホッとひと安心。美味しいお勧め料理をいただき、(皆が)大好きなお酒を飲みながら楽しくお話を伺うことができた。
堀北昌子さん(左)と筆者(右)。堀北さん「行きつけ」のお好み焼き屋さんにて
俳優の叔父の誘いでスクリプターに
堀北昌子さんは、昭和5年(1930年)5月5日京都生まれ。二十歳のとき、俳優だった叔父の誘いで大映京都撮影所のスクリプター採用試験を受けて無事合格、入社してスクリプター見習いとなる。
幼い頃、叔父に連れられ遊びに行った撮影所で「映画に出てみないか」と誘われたことがあったのだが、女優さんにダメ出ししている監督の姿を見て「あんなオジさんに怒られるの嫌だ!」と断ったという。その時もし優しい監督の姿を見ていたら……女優・堀北昌子が誕生していたかもしれない。とにもかくにも、仕事の内容もほとんどわからずに飛び込んだ見習い生活が始まる。
「鉛筆と赤青鉛筆と消しゴムと定規を持ってきなさい。ストップウォッチとバインダーは会社から支給されるから。これ、読んできて」と台本を渡された。翌日撮影現場に行くと、先輩スクリプターが仕事の仕方は説明してくれるのだが、何をどう書けばいいのかは一切見せてくれない。
「ちょっと見せてくれればわかるのに。とてもいい人だったけど、そこだけは意地悪やった」と堀北さん。大変なこともあったが、仕事は「楽しい、面白いなあ」と、この道まっしぐらの人生が始まる。
入社1年後、監督・森一生、出演・長谷川一夫、三條美紀の『銭形平次』(1951年)で現場デビューすることに。たくさんの作品歴の中でも一番印象に残っているのがこの『銭形平次』だという。
森監督は、見習いだった堀北さんを「あの若い子でいいよ、俺が育てるから」と作品につけてくれた。また、夫婦共々堀北さんのことをとても可愛がり、「妹だ」と紹介するほどだった。
デビュー以来、森監督の下で経験を積んできた堀北さん、その運命を変えたのもやはり森監督だった。
1950年代、京都は時代劇、東京は現代劇を撮影するのが主。森監督の東京の撮影現場に遊びに行った堀北さんが、監督に勧められてたまたま見学に行った日活撮影所で、「え! 森一生監督の京都のスクリプター⁉︎」と驚かれ、ぜひともウチに来ないかとスカウトされたそうだ。
1954年当時、堀北さんの月収は1万円弱。そんな時に提示された金額が月保証3万円+担当作品ごとの報酬2万円!「そりゃあ行くよね」と私たち。日活は人手不足で、とにかくスタッフの引き抜きに必死、大映から多くのスタッフが日活に移っていた頃だったという。
ちなみに、東大卒で東映に1959年に入社した方の話によると、初任給が11,000円で映画会社の中では一番良かったとのことのなので、堀北さんの1万円も悪くはなかったように思うが、それにしても3万円はかなりの厚遇だ。
そんな経緯で日活と専属契約を結び、やがて石原裕次郎、浅丘ルリ子、小林旭ら、一世を風靡した日活アクション映画のスター達と多くの作品制作に携わることになる。
紅一点の職場の苦労
とにかく「モテた」そうだ。童顔だったのでいつも若く見られる。「自分は年上が好みなのに言い寄ってくる人は同じ年か年下ばかり。憧れの年代の男性からは子供扱いされて……」と笑う堀北さん。
確かに私自身の経験から言っても、若い頃からベテランの監督や俳優さんと接する機会が多いスクリプターは、どうしても同じ年や年下だと頼りなく感じてしまうものなのだ。仕事も面白いのでバリバリこなしているうちに気がつけば自分がベテランに……。スクリプターに結婚していない方が多いのはそのせいなのだろうか? 大勢の男性スタッフの中の紅一点なのだから必然的に注目され、若い時はありもしない噂話が降って湧いた。
堀北さんも、自分はその気がないのに勝手に噂を立てられ、ある監督のつれあいにヤキモチを焼かれて迷惑したことがあるとのこと。噂の元はよく知っている先輩のベテラン女優さんだったという。
フリーとして独立し、後進の指導にも尽力
1972年に日活を退社されてから三船プロで多くのテレビ時代劇の制作にも携わり、フリーになってからは前出の伊丹十三監督との作品が目を引く。その頃の作品歴を見て気づいたのは、他業種から映画監督に初めて挑戦される方の作品を多く担当されていることだ。伊丹十三監督もそうだが、作詞家の秋元康さん『グッバイ・ママ』(1991年)、キャスティングディレクターの奈良橋陽子さん『WINDS OF GOD』(1995年)、映画プロデューサーの奥山和由さん『RAMPO』(1994年)などなど……。それは、スクリプターがいかに監督に頼りにされ、監督を支えることができる存在かということの証であり、堀北さんの信頼度の高さの証である。
また、堀北さんは多くの後輩を育ててきた。現役の頃から直接教えてきたスクリプターの弟子たちに加え、日活芸術学院、東京工芸大学、城西国際大学などで教鞭をとり、多くの若者を映画の世界へ導いてきた。
スクリプターは俳優さんから「繋がり屋さん」と呼ばれる事がある。それは現場で芝居のアクションや小道具の位置、衣裳の着方なども含めて把握し正確に再現することが仕事のひとつであり、度々厳しく指摘するものだから、「繋ぐ」ことが不得意な俳優さんから多少の嫌味も込めての呼び方だと苦々しく感じてきた。
しかし最近は「繋がり屋上等!」だと思っている。人と人とのコミュニケーションを繋ぐのも大きな仕事、次世代に伝統や技術を繋げたいと思うのもスクリプターの繋がり精神かもしれない。堀北さんは、その精神のおおもとのひとりであることは間違いないだろう。
スクリプターの仕事とは面白いものだとあらためて思う。映像の機材はものすごく進歩しているのに、70年経った今もスクリプターの持ち物は、堀北さんが見習いを始めた当時に先輩に指示されたのと同じく「鉛筆と赤青鉛筆と消しゴムと定規とストップウォッチとバインダー、そして台本」これだけでいい。あとは己れのスキル次第!
堀北さんは京都にお家とお墓がある。以前帰ったとき、太秦の大映京都撮影所のあったところを訪れてみると、そこには大きなマンションが建っており、「大映京都撮影所跡地」と書いた大きな石のモニュメントがあるのを見て涙が出そうになったという。その気持ちとてもよくわかります。将来、もし東映京都撮影所が閉鎖され、そこにマンションが建っていて「東映京都撮影所跡地」と書かれたモニュメントがあったら、私は号泣するだろう。
この度初めてお会いしお話を伺う中で、堀北さんの凛々しく素敵に年を重ねられたその佇まいに、これまでの生き方や心構えを感じ、憧憬の念を抱いた。戦後の京都の映画界を知る、スクリプターとしては最年長の方だ。この数年で聞きたい事がたくさん出てきた。コロナのこともありしばらくお会いしていないが、とてもお元気だと聞いている。堀北さんの帰郷に合わせ一緒に撮影所めぐりをして、思いを受継ぎ、次世代に繋げたいと思った。(執筆:谷慶子)
*スクリプターの仕事内容については「スクリプターとは何か」のページをご参照ください。
公開日:2022.01.20 最終更新日:2022.01.20