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- プロフィール
- 解説
- まず見るならこの1本
- 引用・参考文献
- 注
プロフィール
望月優子
Yuko Mochizuki
1917-1977
- 職種:
- 女優|監督| (『荷車の歌』(1959年)より ©全国農村映画協会)
- 所属:
- 劇団民藝|松竹
『荷車の歌』(1959年)より ©全国農村映画協会
解説
望月優子は、浅草のカジノ・フォーリーの踊り子として芸能界に入り、ムーラン・ルージュ新宿座ほか複数のレビューや演劇のカンパニー、新生新派、苦楽座を経て、敗戦後には劇団民藝に参加した。1948年公開の『四人目の淑女』(渋谷実監督)のキャバレーのダンサー役で映画に初出演するより前に、レビュー、軽演劇、新派、新劇といった多彩な舞台ジャンルで20年近くにわたる経験を積んでおり、『四人目の淑女』のロングドレスの裾を華麗にさばきつつ、踊りながら階段を降りる姿には、かつてのレビューのスターの面目が窺われる。一方、望月の出世作となった『日本の悲劇』(木下惠介監督、1953年)の戦争で夫を失い、水商売もしながら必死で育ててきた子どもたちに見棄てられる和服姿の母親役には、新派で学んだ演技の伝統も活きていた。
『日本の悲劇』(1953年) Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 写真提供:松竹
望月優子は、『米』(今井正監督、1957年)、『荷車の歌』(山本薩夫監督、1959年)で、東京の下町で育ち、10代前半から芸能界に身を置いてきた本来の自分とはかけ離れていたはずの、農村の働く母親役を続けて演じ、「日本のお母さん女優」としての地位を確立した。当たり役となった「農山漁村の働く母親」のみならず、望月優子は、『晩菊』(成瀬巳喜男監督、1954年)の満洲から引き揚げてきた元芸者、『「粘土のお面」より かあちゃん』(中川信夫監督、1961年)の下町の職人の女房など、きわめて多様な出自と境遇の「母親」を演じた。1950年代半ばから1960年代前半にかけての、他と比しても多いとは言いがたい出演作の中で、望月優子が「日本のお母さん」の出自、境遇、体験の多様性を、的確に捉えることができたのは、レビューから新劇に至る舞台歴で培われた多彩な芸の下地があればこそだった。
『荷車の歌』(1959年) Photo: ©全国農村映画協会
『米』(1957年) Photo: ©東映
望月優子は、1960年から1962年にかけて、『海を渡る友情』(1960年)および『おなじ太陽の下で』(1962年)の東映教育映画2本と、全日本自由労働組合(全日自労)製作『ここに生きる』(1962年)を監督し、NTV系『ノンフィクション劇場』で放映された「ぼくは日本人」(1963年)ほか、テレビのドラマやドキュメンタリーの演出も手がけた。しかし、望月の監督としての活動時期は、現状で判明している限りでは、1960年前半の短い期間に限定されており、1969年に刊行された自伝的著作『生きて生きて生きて』に、望月は「映画産業がここまで落ちては、女の演出家まで出しゃばる場所は、もうないというのが事実のように思えることです」と記している【1】。
在日朝鮮人の祖国帰還事業を主題とする『海を渡る友情』。在日米軍兵士と日本人女性の間に生まれ、「混血児」と呼ばれて苛酷な差別を受けていた児童の日本社会への包摂を訴える『おなじ太陽の下で』。後述する「失対打ち切り」政策への反対運動の教宣映画『ここに生きる』。これらの望月優子の監督作品は、いずれも何らかの主義主張の「正しい道筋」を教育・宣伝する目的で製作された。しかし、教育映画、もしくは組合の教宣映画としての「正しい道筋」に、完全に従属するのではなく、ともすればそこから逸脱する「女・子ども」の独自の視点や活動への関心が、3作を通じて途切れなく存在している点に、監督・望月優子の個性を見出すことができるだろう。
望月優子が監督した映画としては最後の作品となった『ここに生きる』は、屋外で働く日雇い労働者、とりわけ失業対策事業の就労者を中心に組織された労働組合である全日自労の委託により製作された、「教宣映画」だった。失業対策事業は、「ドッジ・デフレ」を主因とする深刻な失業危機が到来した1949年に開始され、各地方自治体の公共職業安定所で、認定を受けた失業者に、屋外作業中心の日雇いの仕事を紹介し、地域の最低賃金水準の日当を支払った。しかし、就労者の長期滞留や低効率性が問題となり、1962年には日本政府は失業対策事業の根本的な再検討に乗り出し、翌1963年には、失対事業への新規流入を実質的に停止する内容の緊急失業対策法改正案が国会に提出された。これに対して全日自労は、法改正は「失対打ち切り」であるとして、日本労働組合総評議会の支援も受けて大規模な反対運動を展開した。当時の労働組合映画としては破格の35㎜映画の『ここに生きる』は、その反対運動の教宣映画として製作された。
1962年秋に完成した『ここに生きる』は、全日自労の全国各支部で上映された際に多くの組合員から批判を受け、組合執行部も映画の内容と製作意図との食い違いについての反省を表明している【2】。結局、『ここに生きる』は一般にはほとんど存在を知られないまま、2014年にネガフィルムが発見されるまで、長らくフィルム自体が所在不明になっていた。
失業対策事業は、当初から、戦争未亡人をはじめとする女性の就労者を多数受け入れてきた。失対日雇い労働者の総数に占める女性の割合が、一貫して上昇傾向にあったことは、全日自労が早い段階から女性の労働問題に取り組む動因となってきた。「働く貧しい母親」のイメージを体現するスターだった望月優子に、教宣映画の監督を依頼したのも、組合側のそうした事情が関連していた可能性はある。
『ここに生きる』は、結局全日自労の主導した「失対打ち切り」反対運動の場では不評を被ったが、失対事業をめぐる貧困と労働の問題を、一貫して「女・子ども」の問題として捉えようとする視点は、全日自労という組合のたどってきた軌跡と完全に相容れないものでもなかっただろう。とはいえ、成人男性が中心の組合のデモや集会といった、組合教宣映画の定番要素よりも、幼い子どもたちの遊ぶ組合の託児所の光景や、バーで働きつつ洋裁学校に通う娘と、長年失対事業の現場で働き、組合活動にも従事してきたその母親の生活の情景に焦点を置いた『ここに生きる』は、「運動」の上では運用困難だったことも、また想像に難くない【3】。
『ここに生きる』の前半に、母親が日雇いの仕事に出かける一方、娘は友人と連れ立って、久しぶりに海水浴を楽しむ場面がある。母の「労働」と娘の「遊び」が、ことさらに対比されることはなく、海辺で屈託なく遊ぶ若者たちの姿は、安承玟(アン・ソンミン)の撮影によって、あくまでも美しく映し出される。「われわれの税金」によって運用されている失業対策事業に対する一般社会の視線が厳しかった当時、失対日雇い労働者の家族の行楽の光景を見せることは、「失対打ち切り」反対運動に対する理解と支援を強化するという映画の本来の製作目的にとっては、むしろリスクが大きかっただろう。しかし、望月優子は、自分の監督作品において、「女・子ども」が、より強力な権威を持つ他者によって、ただ「動員」され、定められた「正しい道筋」に従って動かされるばかりではなく、自発性を表現しうる機会としての「遊び」を撮りつづけてきた。『ここに生きる』もまた、望月が「女・子どもの遊び」に対して一貫して持ちつづけてきた、真剣な関心と共感の表明を含む作品であり、そこに映画作家としての独自の個性を見出しうるだろう。(執筆:鷲谷花)
まず観るならこの1本:『「粘土のお面」より かあちゃん』(中川信夫監督、1961年)
望月優子の自他ともに認める代表的な当たり役は、『米』『荷車の歌』などで演じた「農山漁村の貧しい働く母親」だったとして、東京下町の長屋育ちだった本人の実際の出自により近い役柄は、『かあちゃん』で演じた下町のブリキ職人の女房だったかもしれない。
豊田正子のベストセラーとなった綴方(作文)集『綴方教室』の続編にあたる『粘土のお面』を映画化した『かあちゃん』は、新東宝のセンセーショナルな娯楽映画路線を打ち出してきた大蔵貢社長が、組合のストライキによって1960年末に辞任した後、翌1961年夏に新東宝が倒産するまでの、ごく短い権力の空白期間に製作された。昭和戦前の下町の貧しい職人一家の長女の綴った生活記録を、それから20年以上の歳月が流れた後の高度経済成長期に原作のテキストにほぼ忠実に映画化するという、「同時代」には背を向けた、それゆえに不思議な魅力を持つ作品となっている。万事につけて要領の悪い職人気質の夫(伊藤雄之助)を叱咤しつつ、時には幼い子どもを出汁にするいささかあくどい手段を使ってでも、日々金策に駆けずり回る本作の望月優子は、容易には貧困に屈しないタフな生活力と明るさを失わない母親を演じる。
原作でも印象的な、父親が即興の浪花節をうなって家族を笑わせるエピソードが、映画でもとりわけ精彩ある場面として再現されている。伊藤雄之助が、芸達者と押し出しの強さを存分に発揮して、でたらめな浪花節を思う存分にうなり、それを聴く望月優子が笑い転げるひとときの多幸感は、望月優子が「日々の貧困と重労働に笑顔を忘れた不幸な母親」のイメージのみならず、自ら笑い、他を笑わせる幸福を表現しうる俳優でもあったことを示しているだろう。そこからさらに、『晩菊』(成瀬巳喜男監督、1954年)で息子と別れて落ち込む長年の友人(細川ちか子)をモンロー・ウォークの真似で苦笑いさせ、振り返って自分も「ハハハ!」と屈託なく笑う望月優子を、改めて思い出してみてもよい。あるいは、自分の監督作品において一貫していた「遊びの時間」への関心と相通じる要素を、『かあちゃん』の浪花節の場面に見出すこともできるかもしれない。(執筆:鷲谷花)
豊田正子のベストセラーとなった綴方(作文)集『綴方教室』の続編にあたる『粘土のお面』を映画化した『かあちゃん』は、新東宝のセンセーショナルな娯楽映画路線を打ち出してきた大蔵貢社長が、組合のストライキによって1960年末に辞任した後、翌1961年夏に新東宝が倒産するまでの、ごく短い権力の空白期間に製作された。昭和戦前の下町の貧しい職人一家の長女の綴った生活記録を、それから20年以上の歳月が流れた後の高度経済成長期に原作のテキストにほぼ忠実に映画化するという、「同時代」には背を向けた、それゆえに不思議な魅力を持つ作品となっている。万事につけて要領の悪い職人気質の夫(伊藤雄之助)を叱咤しつつ、時には幼い子どもを出汁にするいささかあくどい手段を使ってでも、日々金策に駆けずり回る本作の望月優子は、容易には貧困に屈しないタフな生活力と明るさを失わない母親を演じる。
原作でも印象的な、父親が即興の浪花節をうなって家族を笑わせるエピソードが、映画でもとりわけ精彩ある場面として再現されている。伊藤雄之助が、芸達者と押し出しの強さを存分に発揮して、でたらめな浪花節を思う存分にうなり、それを聴く望月優子が笑い転げるひとときの多幸感は、望月優子が「日々の貧困と重労働に笑顔を忘れた不幸な母親」のイメージのみならず、自ら笑い、他を笑わせる幸福を表現しうる俳優でもあったことを示しているだろう。そこからさらに、『晩菊』(成瀬巳喜男監督、1954年)で息子と別れて落ち込む長年の友人(細川ちか子)をモンロー・ウォークの真似で苦笑いさせ、振り返って自分も「ハハハ!」と屈託なく笑う望月優子を、改めて思い出してみてもよい。あるいは、自分の監督作品において一貫していた「遊びの時間」への関心と相通じる要素を、『かあちゃん』の浪花節の場面に見出すこともできるかもしれない。(執筆:鷲谷花)
フィルモグラフィー
引用・参考文献
望月優子『生きて生きて生きて』、集団形星、1969年
注
※1 望月優子『生きて生きて生きて』、集団形星、1969年、238頁。
※2 たとえば、全日本自由労働組合『第二十八回臨時中央委員会議事録』(1963年5月8・9日。大原社会問題研究所所蔵)には、北海道の支部からの参加者の「ここに生きるという映画は不評判で酷評を浴びた。今後慎重につくってもらいたい」という発言に対し、中西五洲委員長の「映画については、弁解の余地はない。プロダクションのくいものになったということではなく、プロダクションもこれで財政的に困っているが、監督やプロデューサーとの意見が一致しないまま、ついにおされてしまった結果だといえる。おわびする」との発言が記されており、全日自労本部では、映画『ここに生きる』が失敗だったという認識が共有されていたことが確認できる。
※3 1963年8月の全日自労の第19回定期大会の報告では、「この映画は私たちの苦しみの根源がはっきりとえがき出されず、たたかっている姿も浮きぼりにされず、内容も分裂しており、本部も私たちの製作意図とかなり違ったものとなったことについて自己批判しています」と記されている(全日本自由労働組合『第19回定期大会決定集』、1963年8月)。
※2 たとえば、全日本自由労働組合『第二十八回臨時中央委員会議事録』(1963年5月8・9日。大原社会問題研究所所蔵)には、北海道の支部からの参加者の「ここに生きるという映画は不評判で酷評を浴びた。今後慎重につくってもらいたい」という発言に対し、中西五洲委員長の「映画については、弁解の余地はない。プロダクションのくいものになったということではなく、プロダクションもこれで財政的に困っているが、監督やプロデューサーとの意見が一致しないまま、ついにおされてしまった結果だといえる。おわびする」との発言が記されており、全日自労本部では、映画『ここに生きる』が失敗だったという認識が共有されていたことが確認できる。
※3 1963年8月の全日自労の第19回定期大会の報告では、「この映画は私たちの苦しみの根源がはっきりとえがき出されず、たたかっている姿も浮きぼりにされず、内容も分裂しており、本部も私たちの製作意図とかなり違ったものとなったことについて自己批判しています」と記されている(全日本自由労働組合『第19回定期大会決定集』、1963年8月)。
公開日:2021.10.31 最終更新日:2021.10.31