パイオニア>女性パイオニア

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    プロフィール

    坂根田鶴子

    Tazuko Sakane

    1904-1975

    職種:
    監督|スクリプター|編集|(Photo: 国立映画アーカイブ所蔵)
    所属:
    日活|新興キネマ|入江プロ|日活多摩川|第一映画|新興キネマ|松竹|理研科学映画|満洲映画協会
    坂根田鶴子< Photo: 国立映画アーカイブ所蔵
    解説
    日本の女性監督第1号と称される坂根田鶴子は、1904年、京都に生まれた。繊維産業に携わり、発明家でもあった父の仕事から経済的余裕に恵まれた坂根一家は文化や芸術に親しみ、田鶴子もその恩恵を受けて成長した。1922年に同志社女子専門学校英文科に入学するも、翌年に退学、医師と結婚するも一年で離婚。発明家であり、自ら理事長も務めた京都発明協会による「発明推奨映画」の製作にも関わっていた父の口利きで、1929年、日活京都太秦撮影所現代劇監督部に入社する。現代劇監督部で溝口健二の下に配属された坂根は、脚本筆記からそのキャリアをスタートさせ、次いでスクリプター、フィルム編集、台詞指導なども行い、映画作りに関する多様な知識と経験を積み重ねていく。撮影所では、梯子もないセットによじ登るためにズボンをはき、強い照明や落下してくる物を避けるために帽子をかぶる坂根の「男装」はこの頃から始まり、生涯続く彼女のスタイルとなった【1】。  
    だが、坂根が最も望んでいたのは監督という仕事であった。溝口が映画会社を変わる度に行動をともにし、1932年に日活を退社して以降、新興キネマ、入江プロ、日活多摩川、第一映画、新興キネマ、松竹と移籍を繰り返した坂根であったが、監督になる最初のチャンスがめぐってきたのは、入江プロ製作による『足長おじさん』の映画化が企画された1934年のことである。撮影直前まで準備が整いながらもこの企画は頓挫するが、坂根は他にもさまざまな映画のアイデアをあたためていた。監督として初めて撮った作品は、第一映画社製作による『初姿』(1936年)である。幼なじみのふたりが、愛し合うも、結婚が叶わずそれぞれ別の道を進むという悲恋の物語である。『初姿』は結局、坂根が監督した唯一の長編劇映画となった。興行的にも批評的にも大失敗とはいえない作品であるにもかかわらず、女性映画監督である坂根には、そもそも作品を正当に評価される素地さえ与えられていなかったといえる。「女らしい感性の細かさを期待してみたが、それはどこにも見あたらない」といった当時の批評家の言葉には、監督としての坂根を評価する際、いかに強いジェンダーバイアスが作用していたかが浮き彫りにされている。
    『初姿』(1936年) Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 写真提供:松竹
    『初姿』はそもそも意欲的に取り組んだ作品ではなかった。というのも、坂根が本来撮りたかった映画は「女学生もの」だったからである【2】。「私は吉屋信子さんの様なものが好きで女の世界を通じての社会観で撮りたいと思っています」と語った坂根にとって、「女学生もの」とは、吉屋信子が描くような物語世界であったのだろう【3】。少女小説のパイオニアであった吉屋信子は女学生のバイブルともいわれた『花物語』や『屋根裏の二処女』などによって、ときにエロティックな欲望をも含みこんだ女性同士の親密な絆を描いた作家である。だが、美文調でセンチメンタルな吉屋の作品には一貫して、女同士の私的なつながりが社会的な連帯へと拡張されることへの希望があることを忘れてはなるまい。「女の世界を通じての社会観」で映画を撮りたいと語った坂根は、吉屋作品の根底にある社会変革への希求を、自らも映画で実現しようとしていたのではないだろうか。また、『初姿』公開後の坂根の発言からは、「女性監督」としての決意が読み取れる。「男によってのみ描かれ、男によってのみ支配された映画界に、今度は女性の立場から別な新しいセンスを注入する」必要性を説き、「女の世界から見た真実な女の姿を、自分の人生観と共に赤裸々にくまなく描きたいと」と語る坂根は、女のシナリオライターやカメラマンといったスタッフと共に「(女性映画監督の)レオンティン・ザガンならぬ私自身が、男では描けないそれこそ女万丈の映画を作りたいと思う」と力強く述べている【4】。
    『初姿』(1936年)の撮影風景。中央が坂根田鶴子 Photo: 国立映画アーカイブ所蔵
    坂根による手書きの履歴書には、1929年日活太秦撮影所に入社後、『ふるさと』(1930年)より溝口健二監督の助手となり、「以来11年間溝口監督に師事す」と記されている。「師事した」溝口の元を離れ、坂根が理研科学映画研究所(理研)に入社したのは1940年のことであった。監督2作目となる『北の同胞(アイヌ)』(1941年)は、フィルムが現存していないが、撮影日記やメモ、書類からアイヌ民族の生活とその文化を記録した作品であったことがわかっている。情報宣伝と言論・思想統制を行なった国家機関である内閣情報局の後押しによって製作されたこの「文化映画」は、アイヌ民族を日本に包摂し、同化させる目的で作られた作品である。「わたしは映画を作ることより他に知らんので(…)映画を作らしてくれんのなら、ソ連にでも行くのは平気でした」と語る坂根が抱えていた映画監督になることへの強烈な欲望は、日本が国民国家として、戦争を介して領土を拡張し、他民族の住む地を植民地化する歴史的状況において実現されていくことになる。結果的には、日本の植民地政策に加担することによって、女性であっても映画を監督することができた坂根のあり方は、フェミニストの戦争協力という問題を提起するものであり、映画史的にみれば、ドイツの女性監督レニ・リーフェンシュタールによるナチス・ドイツへの協力をめぐる議論とも通じあうものであろう。
    1942年、満洲に渡った坂根は満洲映画協会(満映)啓民映画部に入社し、『勤労的女性』および『健康的小国民』を監督する。1943年には『開拓の花嫁』、『野菜の貯蔵』、『暖房の焚き方』を監督しているが、『開拓の花嫁』は坂根作品のなかで、唯一フィルムが現存しているものである。1945年に満映が解体するまでの3年間に、坂根は約10本の映画を製作したのに加え、他の作品の構成や編集も行っていた。満洲から博多に引揚げてきたのは、1946年のことである。
    京都に戻った坂根は、編集課記録係として松竹に入社、再び溝口作品の編集や記録係(スクリプター)として映画界に復帰する。そして、1949年あたりから戦争未亡人である女性とその娘と一緒に暮らし始めた坂根は、同じ頃、戦争未亡人を題材とした映画の企画に取り組み始めている【5】。この企画も実現されることはなく、結局、坂根は二度と映画を監督する機会を与えられることはなかった。だが、ハリウッドで当時唯一の女性監督であったドロシー・アーズナーにとって振付師で脚本家でもあるマリオン・モーガンが生活と仕事の両方のパートナーであったように、また、坂根が敬愛していた作家・吉屋信子が女性のパートナーと生涯を共にし、その人生と作品が切り離せない作家であったように、この戦争未亡人との出会いは、生活のパートナーを得ただけでなく、再び映画監督となる情熱を坂根のうちに喚起した重要な出来事であったのではないだろうか。
    1961年に松竹を退職した後は、大映京都撮影所でアルバイトの記録係として働き続けた坂根は、かつて望んでいた「女学生もの」も「女万丈の映画」も作ることは叶わなかった。日本の女性監督第1号・坂根田鶴子が、再び映画監督となるチャンスを与えられていたならば、どのような映画を撮っていただろうか。少女映画のパイオニアとなって、女性同士の愛と絆を描きつつ、「女の世界を通じての社会観」で女万丈の映画を作っていたかもしれない坂根田鶴子の未来を想像せずにはいられない。(執筆:菅野優香)
         
    まず観るならこの1本:『開拓の花嫁』(1943年)
    『開拓の花嫁』は、満洲移民事業の推進を目的とし、満洲映画協会(満映)で製作された啓民映画(「文化映画」に相当する当時の名称)である。坂根作品のうちフィルムが現存する唯一の作品であり、1960年代年に青森県三戸郡五戸町で発見された【6】。埼玉村開拓団で撮影され、実際の団員が出演し、農作業や食事といった日常生活を描き出すためにドキュメンタリーの手法が用いられているが、坂根が脚本・演出を担ったドラマでもあり、フィクションとノンフィクション両方の要素が入り混じった作品となっている。

    『開拓の花嫁』は、21分の長さで、プロパガンダ映画としての要点を簡潔で効果的に表現し、職業監督としての坂根の技量を示す作品である。まず特筆すべきは、その空間表現であろう。空と大地を分割する地平線、人間との対比によってスケール感を演出する開拓村の俯瞰ショットの繰り返しは、満洲を「広大」な土地として印象づける。そして、この広さは豊饒さへと翻訳される。コップに並々とつがれた真っ白な牛乳が示すように、農作物だけでなく、ニワトリ、羊、牛といった家畜もまたこの地に共生している。満洲の大地がもたらすのは生活の豊かさである。

    この作品のもうひとつの特徴は、農作業にあっても、家庭生活にあっても、女性と男性、妻と夫が互いを思いやり、ねぎらい合う関係性で結ばれた人間として描写される点にある。そこには、移民事業の促進という映画の公的な目的だけでなく、当時の日本社会における規範的なジェンダー役割や関係性に対する坂根の批評的視点を読みとることができるだろう。

    『開拓の花嫁』は、満洲という場所を人間と自然が融合し、豊かな生を可能にする「約束の地」として描き出す。土地の豊かさは、生活、生命の豊かさなのだと。だが、『開拓の花嫁』に現れた「約束の地」は、日本帝国の植民地政策によって想像された幻想の空間でしかない。それは坂根田鶴子自身が抱えたジレンマそのものである。(執筆:菅野優香)
    フィルモグラフィー
    引用・参考文献
    池川玲子『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子 『開拓の花嫁』・一九四三年・満映』吉川弘文館、2011年。
    ※1 坂根田鶴子生誕100年を記念して発足した「坂根プロジェクト」製作によるドキュメンタリー作品『日本初の女性映画監督 坂根田鶴子を追って』(2004年)には、坂根のチャーミングな男装、断髪姿を見ることができる。遺品の写真やさまざまな資料、小野恵美子氏による坂根の聞き書きからなるこのドキュメンタリーからは坂根田鶴子が生き生きとよみがえってくる。

    ※2 小野恵美子「映画作り四十年」『ききがき女たちの記録』青山社、1999年、28頁。および池川玲子『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子 『開拓の花嫁』・一九四三年・満映』吉川弘文館、2011年、25頁。

    ※3 池川、23頁。

    ※4 坂根田鶴子「女監督の場合」『サンデー毎日』1936年4月1日号、44-45頁。池川、26-27頁。坂根田鶴子に関して遺族が寄贈した資料は京都文化博物館に所蔵されているが、この資料調査を行った池川氏からは資料に関する数々のアドバイスをいただいた。深く感謝申し上げたい。

    ※5 「人々を啓発し教育する」ための啓民映画は、満洲映画協会で1940年頃から「文化映画」に代わって用いられるようになった名称であり、啓民映画部は、国策を宣伝するための映画製作部門としてきわめて重視されていた。

    ※6 池川によれば、このフィルムは青森放送が満洲引揚げ者についてのドキュメンタリーを製作する過程で偶然発見されたものだという。この偶然性が、実際にはある種の必然性をもっていることを含め、フィルム発見の経緯や満洲移民事業における本作品の位置づけについては以下に詳しい。池川玲子『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子『開拓の花嫁』・一九四三年・満映』吉川弘文館、2011年。
    公開日:2021.09.25 最終更新日:2022.04.26