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    プロフィール

    左幸子

    Sachiko Hidari

    1930-2001

    職種:
    女優|監督|(Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 協力: 記録映画保存センター)
    所属:
    綜芸プロ
    左幸子< 『遠い一本の道』(1977年)の撮影中のスナップショットより Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 協力:記録映画保存センター
    解説
    平成生れ世代にとって、よほどの日本映画好きでなければ「左幸子」という名前を聞いたことがないという人がほとんどかもしれないが、左幸子は『女中ッ子』(田坂具隆監督、1955年)、『真昼の暗黒』(今井正監督、1956年)、『幕末太陽伝』(川島雄三監督、1957年)、『彼女と彼』(羽仁進監督、1963年)、『にっぽん昆虫記』(今村昌平監督、1963年)、『飢餓海峡』(内田吐夢監督、1965年)など昭和30年代を中心に、メジャー、独立映画含めて同時代の最も個性的な監督の映画に出演し、数多くの受賞歴を誇る戦後日本映画を代表する俳優のひとりである。演じる役柄に対しても確固たる意見を持ち、良質の脚本や監督との仕事にこだわった気骨ある女優として知られていた左は、並外れたバイタリティと明るさの陰に陰影を帯びた豊かな感情表現と個性的な演技が評価された。このように女優として輝かしいキャリアを誇る左は、実は『遠い一本の道』という映画を監督していた。この作品は長い間見ることは困難だったが幸いなことに近年DVDソフト化され、新たに女性監督として左の仕事を振り返ることが出来るようになった。
    富山県出身で1930年生まれの左は、東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)卒業後、都立高校などで体育・音楽教師をしながら八田元夫主催の演出研究所に通い演技を学ぶ。1952年俳優座の委託生となり、同年新東宝の関連製作会社綜芸プロのニューフェイスとしてデビュー。翌年大手映画会社が俳優の引き抜きを禁止する目的で調印した五社協定をもろともせず早々にフリーになり、1955年公開の田坂具隆監督『女中ッ子』で一躍注目を集める。秋田から上京し東京郊外に住む中流家庭に「女中」として働き始めたヒロインが、問題児の次男坊の頑なな心をほぐしていくというホームドラマで、左の体育で鍛えた身体能力を発揮した溌剌とした演技が光る。
    『女中ッ子』(1955年) Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 ©️日活
    10代から、後にプロレタリア作家として知られる宮本百合子の小説を愛読してきたという左は、大手撮影所によらない独立プロ製作で今井正監督の『真昼の暗黒』に自ら出演を希望したという【1】。1956年の公開時、未だ最高裁で係争中だった八海事件に基づいた社会派映画の代表作として知られる本作で、左は真犯人の証言によって首謀者に仕立て上げられてしまう青年の内縁の妻を演じた。愛する青年のために検察権力にも屈しない反骨精神を見せるが、長引く裁判のために別の男性と結婚するという事実を弁護士に伝えられない無念と悲しみの表情を表すクロースアップが印象的である。左はその後もメジャー娯楽作と独立プロ製作の社会派ドラマと、二足のわらじの仕事をするようになる。
    続いて左の明るさと文字通りの体当たりの演技で、日本映画史上でも最も有名な女同士のけんかを南田洋子とともに派手に演じたのが、奇才川島雄三の日活時代の傑作『幕末太陽伝』である。品川の遊廓を舞台に川島の奥行き深い画面空間を、早口の台詞を吐き、甲高い声で笑いながら、くるくると自在に動き回って駆け抜ける左の姿は、川島の演出が生み出す映画の律動感に見事に対応した。いかに俳優の身体性が映画自体の動きを構成する重要な要素かを見せつけるものだった。左の独特な甲高い声と破壊的なエネルギーは、増村保造監督の『暖流』(1957年)でも、東京駅の改札で「二号でも情婦でもいいわ、私は待っている」とひたむきに求愛する奔放さに遺憾なく発揮されている。
    『真昼の暗黒』以来の独立プロの出演となったのは1959年2月公開の山本薩夫監督『荷車の歌』である。本作は望月優子を主演に、夫と姑に苦労をさせられ続けながらも、明治から昭和を生き抜いた女性の一代記を描いたドラマで、左は望月の娘を演じた。後に監督業に挑戦することになる望月と左というふたりの女優が、全国の農業協同組合の婦人部のカンパで製作された本作に関わったことは、ふたりが示した労働運動や社会運動への関心に繋がっているだろう。
    左は1959年10月に記録映画監督羽仁進と結婚。羽仁は岩波映画製作で学校の子どもたちを斬新に描き、記録映画の枠組みを超える気鋭の監督として話題を呼んでいた。ふたりは育ちも環境もまったく違う同士だったが、この結婚はその後の左を大きく変える転機となった【2】。1963年、女優としての左の仕事はある頂点に達する。撮影中に第一子を妊娠中だった左が文字通りの体当たりの演技を見せた今村昌平の『にっぽん昆虫記』では、それまで左が得意としたヒロインの集大成のような、貧しさから這い上がり、世の中の荒波にもめげずに売春宿の経営者として逞しく時代を生き抜くヒロインとめを演じた。ひとりの女の生き様に戦後日本の姿を重ね合わせた今村の演出意図に応えるべく、役にかける左の聡明な演技と情熱が、作品に見られる今村の過剰な作為性に抗い相乗効果を生んでいる。
    『にっぽん昆虫記』(1963年) Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 ©️日活
    続く『彼女と彼』は羽仁がATG製作で劇映画に挑戦した実験性の高い映画である。左は敗戦後の高度成長期を支えた新興ホワイトカラー層を中心に東京郊外に増え始めた団地に住む主婦という異色の役柄に挑み、新境地を見せた。このまったく作風も主題も異なる2本の映画で主演した左は、日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を受賞する快挙を成し遂げた。
    『彼と彼女』(1963年) Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 協力:記録映画保存センター
    1965年には内田吐夢監督の『飢餓海峡』に出演。偶然出会ったひとりの男を愛し抜いて、その男に結局殺められてしまう悲劇の娼妓という、左が得意とする素朴でひたむきなヒロインを演じ、数々の賞を受賞。1972年には深作欣二監督『軍旗はためく下に』で、軍法会議で処刑されたという夫の死の真実を探すうちに悲惨な戦争に隠された衝撃の真実に直面する妻を、抑えた演技で演じきった。こうして、左は敗戦後の高度成長期に日本が葬り去ろうとする「過去」を象徴するような女性像を体現する女優となったのである。  
    左は商業劇映画で活躍する一方で、羽仁と一緒に独立プロ製作と上映運動にも関わっていくようになる。夫と共にペルーまで出かけて撮った『アンデスの花嫁』(1966年)の経験も『遠い一本の道』へとつながるものだったのだろう。また、1971年11月には司会を務めていたワイドショーで沖縄返還協定の強行採決を批判し、スポンサーからの苦情に自ら降板したというエピソードにも左の社会批判精神が窺える。  
    『遠い一本の道』は、1974年ころに着想した企画のようである【3】。詳細については「まず見るならこの一本」で詳しく説明するが、公開時に左は、映画を見た羽仁から手紙をもらったというエピソードについて語っている。  
    「『遠い一本の道』を見て、参った。どうしようもなかった。カメラの瀬川さんとは『法隆寺』をやったし、録音の安田君は『不良少年』で苦労したなつかしい仲間だ。この人たちに助けられながら、君はまったく別な新しい世界をたくましく、しかも暖かく作り出せた。やられたと思った」という羽仁のコメントに対し、「彼はすばらしい才能の持ち主」といいながら左は次のように続ける。「でも個人の中にある問題をどう拡大するかという彼のテーマと個人と社会のかかわり合いこそ至上というわたしとではかみ合わないわ。」【4】羽仁との違いを明確に捉える左の監督としての立ち位置を表す言葉だ。
    本作でも、主婦たちの言葉をそのまま伝え、社会と関わる女性の姿を捉える映像に、女性監督としての左の意思が明らかであり、再評価に値する女性映画人の仕事である。(執筆:斉藤綾子)
         
    まず観るならこの1本:『遠い一本の道』(1977年)
    左幸子の女優としての仕事を知るのには、彼女の身体性が光る『幕末太陽伝』、社会の底辺を生きる女の逞しい生き様を演じた『にっぽん昆虫記』、そしてM・アントニオーニ監督『赤い砂漠』(1964年)を先取りするようなプチプル主婦の存在論的な不安を表現した『彼女と彼』を挙げたいところだが、やはり映画人としての左の1本を選ぶとするならば、企画・監督・主演もした『遠い一本の道』である。

    本作は、連合国の日本占領が終わった年に北海道の保線区で働く国鉄マンと結婚したヒロインとその家族の30年にわたる人生を描く。安泰だと思った夫の仕事に合理化の波が直撃、妻たちも大きな影響を受け、それまで助け合ってきた職員の間にも組合運動をめぐって世代間のギャップも生れ、亀裂が走る。映画は、戦後日本の昭和という時代の基盤を支えた労働者とその家族の姿を重ね合わせ、変わりつつあった日本の風景をうまく捉えている。さらに映画は国鉄という組織で働く夫とその家族、中でも内職という家庭内の補助労働に従事する妻の姿にそれぞれ焦点を当てるが、現実には組合運動内における性別役割分担がつよくあったにもかかわらず、家事労働や組合の補助的作業をする妻たちの姿にスポットライトを当て、映画として平等に描こうとする点に左の演出判断を見ることができよう。

    国鉄から1億2千万円という製作費、記録映画の名カメラマン瀬川順一、劇作家の宮本研、編集浦岡敬一など一流のスタッフの協力を得て、左自身の主張が充分に映画に活かされている。たとえば、北海道で消えゆくSLをとにかく撮りたいとフィルムを惜しげなく1千フィートも撮ってしまったというだけあって、瀬川が捉えた汽車のシーンは息をのむ美しさを見せるだけでなく、保線作業をじっとカメラが捉える部分はまさに貴重な記録映像となっている。また、約1年半かけて左自身が国鉄職員の妻や行商の女性たちをインタビューして録音した生の声もドキュメントとして織り交ぜられ、組合運動の現場の取材も組合員のディスカッションの場面に活かされ、ドキュメント性にこだわった左の演出が光る。

    日本列島、北から始まり、南の軍艦島をカメラが捉える時、左が描こうとした昭和を誠実に、不器用に生きた者たちの「一本の道」が確かに繋がる。労働者は男たちだけではない、女たちも日本を支えてきた労働者なのよ、と叫んでいる映画人・左の声が画面から聞こえてくるようだ。(執筆:斉藤綾子)
    『遠い一本の道』(1977年)の撮影中のスナップショット Photo: 国立映画アーカイブ所蔵 協力:記録映画保存センター
    フィルモグラフィー
    引用・参考文献
    左幸子「我々の「遠い一本の道」」『シナリオ』32.11、1976年11月号
    ※1 「大いに語る左幸子さん」『新女性』64号、1956年6月、77頁。

    ※2 ふたりの最初の出会いはキネマ旬報ベスト・テンの授賞式だが、左は1958年に出版された羽仁の『演技をしない主役たち─記録映画製作者の眼から』(中央公論社)を読んで感激していたら、友人が偶然羽仁を紹介してくれたという(羽仁進・左幸子対談「未央は「放任主義」で育てます」『婦人生活』1972年6月、191頁)。羽仁は、歴史家で参議院議員を務めた羽仁五郎を父に持ち、婦人運動家の羽仁説子を母に、そして祖父母に自由学園創立者を持つエリート一家に育った。伝統やルールにこだわらない自由人の羽仁は、記録映画と劇映画の境界に囚われない斬新な映画スタイルが注目されたが、左と結婚してから劇映画への傾倒を強めていったように思える。左と羽仁は、後に若くして才能を発揮し、エッセイストとしても活躍するようになる娘の未央の子育てをめぐって対立を深めていったと言われる。さらに、羽仁は1973年にアフリカに撮影旅行に行ったときに羽仁のマネージャーをしていた左の実妹である額村喜美子と関係を持った。これを知った左が自殺未遂を起こした後にふたりは離婚に至ったと言われる。左が『遠い一本の道』の監督業に挑戦したのは、直接的でなくても間接的には当時の左の困難な家庭生活の破綻の影響もあるだろう。左は1976年6月に映画を完成させるが、公開は翌年となり、奇しくも羽仁との離婚後になった。

    ※3 左幸子「我々の「遠い一本の道」」『シナリオ』32.11、1976年11月号、48頁。

    ※4 「苦悩と希望の左幸子」『読売新聞』1977年7月30日夕刊4面。
    公開日:2021.09.16 最終更新日:2021.10.28